ちまちま懐古/回顧

2015年9月 2日 (水)

貝殻お玉に鮑石鹸

秋が来たと思いましたが、本日は蒸し暑い夏に逆戻り。

世の中、ままなりませぬ。

どどどどっと疲れが出ました。もろもろ重なり合って、2週間ほど土日も仕事してまして、そろそろ終わるかと思ったら、次の仕事が入りました。ありがたいけど、少し休みたい・・・

↓涼しげなこれは何でしょう。

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そもそもここはどこでしょう。山の中?

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いえいえ、2か月前の上野散歩の不忍池の蓮の咲き始めでございます。

ビルが写ってなければ、田舎で通用しますわね。

で、これ↓は何でしょう。

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即答できる方は、中高年でありましょう。

石鹸なのは見てわかります。入れ物の方にご注目。アワビの貝殻。

結構使ってましたよね。味噌汁よそうお玉も、貝殻を木に挟んだものでした。ウチのお隣さんはたしか赤貝の殻を使ってましたっけ。

↓こういう所にあります。

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上野公園隣接の「台東区立下町風俗資料館」内の展示です。

再現でござい、の雰囲気でありますが、懐かしいことは懐かしく、忘れていたことを思い出させてくれます。貝殻のお玉のことなんぞ、何十年も忘却の彼方でありました。

↓昔の家は茶色づくしでしたなあ。

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お店の再現です。

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「古き良き時代」はこんなんで商売が成り立っていた・・・かどうかはわかりません。

「再現」からは抜け落ちるもの多数。

当時を知る人間の目には「よくできた偽物」と映るかも。

当時を知らない人間には「この目で見た昔」として記憶されてしまうかも。

恣意的に作られた映像が記憶として定着することの怖さは分かっているつもりなのに、結構いろいろ影響されてしまっている。

(何が言いたい・・・←自分で訳分かんなくなってる・・・)

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2014年5月26日 (月)

昔の怒りと悲しみは・・・

昨夜メールにて訃報あり。

数年前に余命宣告されていた方でした。

いつかその時が来るとは思っていましたが、いざとなると感無量・・・

(ご冥福をお祈りします。)

晩年にはワタシの方がその人との接触が多くなりましたが、ジイ様(今回はジを1個省略)の所縁の人です。

ジイ様にお伝えしましたが、寄る年波のせいか元々自分以外に興味がない性格のせいか(たぶん両方)、反応いまじゅうさんくらい。

常識人なら、お通夜は?葬儀は?会場は?お香典は?その他あたふたしまくるところですが、ジイ様の日常に変化なし。

若かりし頃の話など聞き出そうとしましたが、覚えてない、ですと。

赤坂見附のホテルで結婚式をしたとか。ニューオータニですかね。

あれこれ聞き出そうとしているうちに、話は60年安保のことになりました。

当時学生のジイ様は国会突入組でした。それも先頭切ったらしい・・・( ̄◆ ̄;)

写真集「怒りと悲しみの記録」(濱谷浩 1960年 河出書房新社)に、血塗れでいきり立つジイ様の写真が載っているのだとか。

その時亡くなった女子学生樺美智子さんのことは覚えているそうです。

普段は目立たない学生でデモに出てくるような感じではなかったと。

倒れた樺美智子さんを数人の学生とともに、警察病院に運んだと。

廊下で待っていたら、「デモに殺された娘はどこだ」と叫びながら男性が入ってきたと。樺さんの父上でした。

(ジイ様の記憶違いの可能性もあります。「デモに」ではなく「権力に殺された」~と以前には言っていた気がします。)

樺さんの死因は警察発表では「圧死」、デモ隊側では「権力に殺された」・・・

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60年安保の頃、ワタシは田舎の物心中途半端なジャリとかガキとかの類でした。

意味も分からず「アンポハンタイ」とデモごっこをしていました。

仲良しの子の歳の離れたお兄さん(血縁のない戦災孤児をおじさんおばさんが引き取って育てた)は当時東京の大学生でした。

どういう理由でその時田舎に帰ってきていたのかわかりませんが、アンポごっこをするジャリたちに、話をしてくれました。

女子学生が警官に頭を割られて血だらけで・・・追われて逃げ出したやつがいたが僕は逃げなかった、このやろーと・・・

当時はなんのことか全然分かりませんでした。

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激動の青春を生きたジイ様ですが、みんなみんな遠い昔のことになったようです。

そう、人は老いる。

いつかこの世を去る時がくる。

ジイ様はもう少し現世に留まりますよね。ちと、昔のことを思い出して下さいませんかね・・・

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2014年5月15日 (木)

茶櫃が解体するとき

茶櫃が解体するとき、国家も解体する・・・わけありません。

アホなこと、しでかしただけです。

5月4日、朝7時に大掃除を始めてしまいました。午前中に終わらせて午後は散歩に行こうと思っていたのですが・・・

気がつけば、止められない止まらない状態で、夜7時まで大掃除。

なんでしょね。年末にしなかった報いでしょうかね。次から次へと気になっちゃって片付け魔と化していました。

で、漆器の茶櫃発見。

発見て、自分でそこに仕舞ったんですけどね。長いことアウトオブ眼中。

なんで仕舞っちゃったかというと、好みでないから。

好みでないけど、通りすがりの店じまい商店の前でタダ同然の値段のついた数々の調度品の中に漆器の一段重を見つけて200円で買おうとしたら、くだんの茶櫃もセットだと。

茶櫃いらん、と粘ったのですが、セットだからもってけと、売り主の爺様に押し切られました。

で、暫くは座卓の下で雑物入れになっていましたが、ある日掃除のついでに、高いところに乗っけてしまって・・・

使わないのもナニだから(ナニはなんですか?)、埃を拭いて根菜入れにでもしましょ・・・

あ~れ~、蓋の縁がひび割れているう~乾燥しちゃったんですう~

本体は無事です。こっちだけでも使えるからと、拭いて出来心で少し水に漬けました。

で、1時間もたってません。水から引き揚げたら、べろんべろんに塗装が剥がれていました。

なんで? 箱はあまりにぼろくて捨てちゃったけど、高級漆器って書いてあったはずだよ・・・

仕方ない。いっそ塗装を剥がして、木地だけで使おうと、ぺりぺりやって、下地の砥の粉?をタワシでこすって・・・

げっ。

新聞紙が出てきましたあ~

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以前見た漆器の修理サイトに、「下地が新聞紙の粗悪品」だからナンタラカンタラ修理費が高くついたみたいな記事がありました。お盆だか卓だかで修理代で20万円越え。

粗悪品ですか。

確かに下地には布や和紙を使いますよね・・・

で、最終的に、底板も貼り合わせであることが判明。

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「粗悪品」が「刳り貫き」であるはずがないですよね・・・

節もあるし。左から2番目の板にはヒビが入っているし。

蓋は分厚くて重かったから、こっちは「刳り貫き」かもしれないと期待しましたが、同様でした。

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左の大きい板は水に漬けといたら反っくり返りました・・・

バラバラ状態の板を観察すると、かんな掛けも雑。どういう仕事してんだ・・・

で、こっから迷路。

剥がした新聞紙をじっくり見ちゃいました。漆器サイトには「戦後出回った粗悪品」みたいな記述がありましたけど、新聞紙から作られた年代がわかるかもしれない。

戦後っていつよ。

経済白書が「もはや戦後ではない」といったのは1956年(昭和31年)のことですが、気分的にはもっと長かったんじゃないでしょうか。

ワタシの子供時代、あちこちで傷痍軍人さんの白服をみかけましたし、仲良しの子の年嵩のお兄さんは本当のお兄さんではなく、おじさんおばさんが戦災孤児を引き取って育てて大学まで行かせたんだったし、ワタシが上京するとき、形骸化していたとはいえ「米穀通帳」を持たせられたし。

(一度も使わないうちに紛失しました。)

で、この新聞はいつのよ。

ヒマじゃないけど調べました。ネットで大概のことがわかる便利な世の中です。

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映画が娯楽の王様であった時代らしく、映画案内の充実していること。

では調査開始。封切りと思われるものをあたります。

movie walkerによりますと

歴史は女で作られる」 1956年3月10日公開。

黄金の腕」 1956年5月29日 公開

スカートをはいた中尉さん」 1956年5月26日 公開

他国者は殺せ」 1956年6月20日 公開・・・

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他に「妖花アラウネ」とか面白そうな題名がありましたが、1927年版と1950年版がありまして、1950年版が1953年8月21日 公開。これは名画座系でしょうねえ・・・

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で、わかること。この新聞は1956年(昭和31年)6月20日以降の発行

番組欄はラジオです。TV放送開始は1953年なれど、普及したのは「1959年の皇太子明仁親王成婚パレード」からです。

↓『東京千一夜「夜の鶯」森繁久弥』でわかるかと思ったら、ぜんぜんヒットしません。

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(NHK第一放送かと思われます。)

↓じゃ、これでどうだ。

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当たりました。『放送劇「午後8時13分」』。

放送劇とは「ラジオで放送する劇」だそうです。

でweblio辞書によりますと、映画「午後8時13分」は〈“平凡”連載、文化放送連続放送劇菊田一夫の原作〉を1956年大映が映画化しています。

はあ。

上のほうの『風雲黒潮丸』はどうでしょう。これも当たり。weblio辞書に、

ニッポン放送他で連続放送され、全国少年ファンに人気を得ている小沢不二夫原作の冒険時代放送劇の映画化。〉 (1956年)

とあります。

うーん、1956年以降とはわかったけど、確定は難しいですねえ。

↓市況から見ると・・・

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季節は初夏です。尺貫表記だということは・・・

日本では、計量法により、1958年12月31日限り(土地と建物の計量については1966年3月31日限り)で取引や証明に尺貫法を用いることは禁止〉されたそうです。(wikipedia)

ちゅうことは、1956~1958年の初夏かあ・・・

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NHK第二放送と思われる番組欄に「引揚者の在外事実調査」がありました。これを検索すると、大村市の広報に辿りつきます。

1956(昭和31)年6月上旬号No.105

http://www.city.omura.nagasaki.jp/kouhou/shise/koho/koho/mukashi/s30-s39/documents/5141369.pdf

それによると、調査を昭和31年6月10日から23日まで行うとなっています。

この新聞の発行は、1956年6月でしょうかしら。

はっ、仕事しなくちゃ・・・

追記:肝心なことを忘れていました。箱を捨ててしまったけれど、確か「(東京)美●加堂」の新社屋完成記念品でした。

で、ネットで「(東京)美●加堂」を調べましたら、昭和32年5月に三鷹市下連雀の新社屋に移転しています。

ということは、1956年(昭和31年)6月10日以降、1957年(昭和32年)5月の間に作られた・・・

おおっ、嵌った。

さらに追記(5/16):ラジオ番組に「参院全国区候補経歴」とあります。

第4回参議院議員選挙は、1956年6月12日に告示され、7月8日に投票が行われています。

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2014年3月13日 (木)

『琥珀色』の名曲喫茶

都内JRの駅の数以上あった名画座が絶滅したように、あまたあった名曲喫茶も絶滅の一途・・・

地元吉祥寺「こんつぇると」ももうありません。(元近鉄裏の「バロック」は健在のようです。)

昔々、コーヒー好きかつクラシック好きの知人に連れられて、都内あちこちの喫茶店に行きましたが、主体性のない「連れられて」でしたので、記憶が曖昧です。

今思うに、かなりの名店に出入りしていたはずですが。

覚えているのは新宿の「らんぶる」「スカラ座」、渋谷の「ライオン」、ケーキ目当てに銀座「ウエスト」「コロンバン」・・・

先日コメントで「新宿の名曲喫茶マンションハウス」が話題になりました。

残念ながら記憶にありません。

今のところ、周囲に知っている人もいません。

どんな店だったのかな、と思いつつ、昔の喫茶店が気になり、図書館で本を借りてきました。

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『琥珀色の記憶 「時代を彩った喫茶店」』
 奥原哲志 河出書房新社 2002年5月30日発行

著者の奥原哲志さんは、新宿歴史博物館学芸員。

この本は平成12年10月、新宿博物館で喫茶店をテーマに展示会が開かれたときの資料をまとめたもののようです。

ぱらぱらとめくってみたら、あれえ名喫茶「青蛾」に行った覚えがあったりします(今まですっかり忘れていました)・・・

思い出す機会がないと思い出せないものですね。

で、ぱらぱら見ていったら、ありました。66ページに。

〈高野前から歌舞伎町へ向かう柳通りのマンションハウスはシャンソンとコーヒーの店で、西欧城郭風の豪華な建物が目印だった。〉・・・

67ページには小さいながらも図版がありました。

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昔の雑誌からとった図版なので精度は落ちています。

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コメントを下さったユキさん、このお店だったでしょうか。

残念ながら今はないそうです。

2年前の発言小町に話題がありました。

「ご存知でしょうか?!新宿マンションハウスを! 」
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2012/0304/488536.htm?g=01

以下は「フーコーさん」の発言ですが、他にも働いていた方などの発言もあります。

〈入口の扉をあけるといきなり小さな池と噴水があり、コイがおよいでました。
中は吹き抜けの塔のような空間で、ぐるぐると客席が桟敷のようにとりまき、多分4階まであったと思います。

内装はスカラ座のような名曲喫茶(多分同時代)同様の洋館お屋敷風とでも言いましょうか。
私がよく行っていたのは80年代初頭から半ばだったと思いますが、たしか3階以上は「同伴喫茶」(時代を感じます)と書かれていました。

たしかに当時でも夢かまぼろしでは?と思わせる不思議な空間でした。
私も「知っている」または「おぼえている」という人に出会ったことがないんですが、確かにありましたよ。

地上げが盛んな時代に、最後までねばっていて、結局その一角に建った銀行の四角いビルは、マンションハウスの所だけ欠けた変形になっていましたが、いつしか無くなってしまいました。
残念です。
写真を撮っておけば良かった。〉

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2012年12月10日 (月)

思い出の痕跡、あるいは「そして誰もいなくなった」

父が82歳で亡くなり、5年後に母も82歳で亡くなった。

だから自分も80歳くらいまでは・・・生きられるかは分らない。

戦後の日本全国大貧乏時代に続く大慌ての日本社会急成長時代に子供時代を過ごしたので、身体の基本部分がいろいろ怪しい。

加工食品あふれる今と違って、昔は自然のものを食べていた、と思うのは大間違いで、今なら禁止の物質を含んだ食品を大量に摂取していた世代ともいえる。

小学校の校長先生の朝礼訓示はほとんど覚えていないが、一つ鮮明に残っている。

「粉末ジュースは舐めてはいけません。」

水に溶かして飲みなさい、ということ。

当時粉末を舐めるのが流行っていたが、それは体に毒で、肝臓の病気になった小学生がいると。

毒なら水に溶かしても同じじゃないか・・・と思いながら「渡辺ジュースの素」を飲んでいた。ジュースと言いながら、甘味料と香料と色素の合成品で果汁はゼロだった筈。舌が鮮やかな色に染まった。

甘味料は砂糖でなく、サッカリンとかズルチンとかチクロとか、その後発ガン性を疑われるものだったし。

ソーセージもタラコも真っ赤っかに着色されていたし。

農薬は使いたい放題だったし。

手押し車に積んだ大きな噴霧器で町内を盛大に消毒して回ったし。

猫の蚤取りに直接DDTを降りかけて猫が死んだし。

予防注射はアルコール消毒するとはいえ何人にも同じ針を使っていたし。

(運が悪いと使いまわして先の丸まった針にあたり痛かった・・・)

今から思えば乱暴な時代だったが、当時はそれが日常だった。

だが、幸運な世代だったかも知れない。

親の世代は、いやおうなく戦争に巻き込まれている。太平洋戦争(1941年~)だけでなく、日中戦争(1937年~)という区切りもある。両親の青春はまさに日中戦争の只中であった。

父は召集され南方戦線に送られたし、母は終戦の年の地方都市空襲で焼け出され、母の実家はその後国有地に開拓農家として入植し、慣れない苦労をすることとなった。

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と、そんなことを思い出したのは、母方の実家がどうなったか、祖父母・叔父夫婦と仲の良かった親戚から聞いたからです。

結論から言うと、何も無くなったとのこと。

祖父母と叔父夫婦が苦労して切り開いた畑は別荘用地として売られ、思い出の詰まった家屋も牛たちのいた小屋も取り壊されてまっさらの更地で売られたとのこと・・・

えええ~~~といっても仕方ない。相続した人が決めたことですもの。

でもねえ・・・

子供の頃、夏休みをまるまるその高原で過していました。

夏でも手の切れるような冷たい川の水が生活用水でした。井戸も掘りましたが、水道が引かれたのはずーっと後のこと。

お風呂は川の水をバケツで運び、山で採ってきた小枝をくべて沸かし、その煙に燻されながら入りました。

炊事もかまどに薪。

大人には不便な暮らしだったと思うのですが、子供にはまさに桃源郷でした。

標高が高いので、春と夏が一遍にやってきて、家々の庭先にも原野にも花が咲き乱れていました。

野生のグミ(茱萸、果実)や垣根のスグリ(グズベリー)や巴旦杏(トガリスモモ)を食べ、キスゲやナデシコ、オミナエシ、吾亦紅などに覆われた高原を駆け回り、沢で蟹を探したり、いとこ達に先導されて潅木を押し分け大きな川に遠征して泳いだり・・・

その後何十年も経って、祖父母叔父夫婦の墓参りに行った時、原野は見事に木の生い茂れる森に変わっていました。

毎年夏に訪れていた子供の頃、元気な祖父母がいて叔父夫婦がいていとこが二人いてこちらはきょうだい三人で行って、近くには祖母の兄弟の家があり“またいとこ”がいて、他にも別の伯父夫婦がいてそこにもいとこ達がいて・・・各地に散らばった母のきょうだいも揃ってやってきて・・・父のきょうだいも一緒になって・・・

あの賑やかな日々は、高原の夏の陽射しと共に鮮やかに脳裏に蘇りますが、物としては何も残っていない・・・人々も多くが逝ってしまった・・・

祖父母はこんな結末を予想していなかったでしょうね。自分達の生きた痕跡が跡形もなく消え去るなんて。

淋しいねえ・・・と、親戚(ワタクシの叔母)はつぶやいていました。みんな居なくなっちゃった、みんな無くなっちゃった、と。

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当時の風景写真は残っていませんが、思いがけないところで郷愁を覚える写真に出会いました。↓

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手前にタバコ畑、右後ろにとうもろこし畑。左に小屋があり、牛を放しているのか柵が見え・・・

こんな風景でした。木はもう少しまばらでしたが。

タバコの収穫を手伝って、指がニコチンで黄色く染まったのを覚えています。

なんとこの写真はニューヨーク近郊ノースカロライナ州ダーラムの「デューク・ホームステッド(Duke Homestead)」です。

「ニューヨーク近郊の光と風 美しいカントリーサイドの旅」
(文・写真 中野志保子 東京書籍 1998年6月7日)

40-41ページからお借りしました。

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2012年8月 6日 (月)

厚紙ランドセル

いきなり遠い昔のことを思い出すことがあります。

きっかけはいろいろですが、今回は平凡パンチの表紙絵でおなじみの大橋歩さんの「早くお家に帰りたい」(2010年6月15日 アルネBooks)を読んでいて。

136頁「わたしのランドセル」に、戦後間もない物のない時代、小学校入学祝に国防色のキャンバスのランドセルを貰ったことが書かれています。

〈女の子の色でなく、当時どんなにがっかりしたことか、どんなに哀しかったことか、どんなにつらかったことか、でもだれにもわかってもらえませんでした。〉

の文章の直前には

〈なんと厚紙製のも売られていたと聞いています。〉

ワタクシのランドセルがその「厚紙製」でした。祖父が買ってくれたものです。一見ランドセルですが、所詮紙。雨に濡れればあっけなく反り返り端がぼろぼろになり・・・

結局小学校高学年まで持ちませんでした。

思い出すと哀しくなります。

戦後10年以上経ってもまだそんなものが出回っていた時代でした・・・という哀しさではなく、兄も弟もちゃんとしたランドセルを買って貰ったのに・・・という哀しさ。

中途半端な田舎都市には男尊女卑が根強く残っていて、紙のランドセルと一緒にそれらをまとめて思い出すからです。

たかだか半世紀ほど前の日本の地方都市のそんな家庭で女に生まれることは「貧乏くじ」を引くのと同じでした。今となっては、女でよかったとつくづく思うのですが。

ネットにこんなものがありました。

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maruse web shop
http://maruse.ocnk.net/product/175
とても古い紙製のランドセル[ant-ran01]
販売価格: 6,825円 (税込)

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物資が乏しかった戦争中から戦後間もない頃(昭和20年代)に使われていたと思われる紙製の小さなランドセル。厚紙に鉄鋲を打って作られています。肩にかける部分は布、ベルトは革が使われています。
230X270X100mm(目安)

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ワタクシのはこんなに立派じゃありませんでした。鉄鋲なんか打ってありませんでしたし、ベルトの部分も厚紙製だったと思います。

ランドセルの反り返った覆いの部分が脳内に現れると、あれもこれもそれも一遍に思い出し、恨み辛みも新鮮に蘇るので、封印しといたはずなんですけどね・・・

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2012.8.7追記:こんなブログがありました。

コープさっぽろ
小樽みどり店とさかい家

http://blog.todock.com/tasukeiland/2010/12/post-651.html

〈元々は、損害保険会社の建物だったようで、何とも大きなキャスター付きの金庫がありました。その他には、ランドセルが壁に掛かっているのが目に留まりました。昭和25年~30年くらいのものだそうです。〉

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写真もお借りしました。

右から2番目の覆いが反り返ってますけれど、ワタクシのはもっと凄かった・・・

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2012年7月 3日 (火)

どーでもいい話

子供の頃のあだ名は「博多人形」でした。

顔がのっぺりしていて、目鼻などのパーツが中央に寄っていましたゆえ。

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育ち盛りの常で、お洋服はサイズオーバーのブカブカか、もうだめよのキツキツ・・・

同級生の優等生のお金持ちのお嬢様に本気でキレられました。

「なんなのよ、そのみっともない格好!!!」

そんなこと言われましても庶民としては返事のしようがございませんでしたです。

下向いたまま、大人になったら美人になるんだから・・・と密かに自分をなぐさめていました。

当時は「小さい頃可愛い人は大人になったらブスになる」という俗説がございまして、多数の女の子はひそかに「可愛い○○ちゃん」の将来を思い浮かべることで、溜飲を下げておりましたのでございます。

やがて物心(ものごころ)が恋心に変わるお年頃になりまして、可愛い子はやっぱり可愛く成長し、そうでない子はそれなりに、という現実に気づきます。

世の中不公平だっ!!! って、そんなの大昔からです。

可愛い路線がだめとなれば、個性化路線を突っ走りましょう。

時あたかもヒッピーはやなかなりし頃、ロックも全盛期、価値観ひっくり返して生きようぜ・・・

のはずでしたが、人間、天才でもなければそうそう新しい価値観は創造できませぬ。

いつの間にか原点回帰しておりまして、気がつけば鏡に映る姿もやることも、亡くなった親そっくりに・・・

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最近のワタクシのファッション(といえるシロモノでなし)。

カラオケリサイタル用ではございません。

ニコニコと口角を上げているのは、

「怒ってる?」

と思われないためです。

ごく普通の顔をすると、自分でも怖いです。

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2011年6月 8日 (水)

わたしがこどもだった頃

わたしがこどもだった頃

世界中で核実験が行われていた

アメリカもソビエトもイギリスもフランスも

核実験の競争をしていた

ビキニ環礁で日本の漁船が死の灰をかぶり

乗っていた人はそれから半年後に死んだ

雨が降ると放射能が混じって降ると人々が言った

だから雨に濡れてはいけないと

放射能がどんなものかこどもだったわたしは知らなかった

放射能の雨に濡れると頭がはげる

そうこどもたちは笑い転げて頭にハンカチを乗せて走って帰った

 

わたしがこどもだった頃

わたしの世界はいつも回っていた

教室で国語の教科書を朗読するために席を立つ

すると恐ろしい勢いで教室が回りだした

どこかに飛ばされていかないよう

わたしは両手で教科書をつかみ声を張り上げて朗読した

わたしがわたしの世界の軸であることを意識して視線を教科書だけに集中する

そうすれば読み終わって着席したとき

先生の声が聞こえないほど頭の中にがんがんと音が鳴り響いていたけれど

わたしは元の世界にいられる

 

世界の回転は下校中にも訪れた

田舎の小さな町は道と用水路が並んでいる

歩いていると用水路のほうへ引っ張られて落ちそうになる

柵もない用水路は深く流れが速い

近づきたくないのに体が傾いていく

川にはまって死んだ子の話をときどき耳にした

このように引き込まれていったのだろうか

 

家で寝ていたある夜

世界中がぐるぐる回り始めた

それまでは立っているときだけだったのにどうしてかなと思った

 

こどもだったわたしはよく鼻血をだした

前触れもなくいきなり血がほとばしる

そのたび上を向けとか首の後ろを叩けとか鼻を冷やせとか言われた

鼻に綿やら紙やら詰め込まれた

 

ある夜起き上がった途端に洗面器にうけられるほどの血が出た

その夜は一晩中口の中に血の匂いがしていた

夜があけて病院に行ったりはしなかった

こどもがひんぱんに鼻血を出すのは珍しいことではなかった

 

そうしたことが放射能と関係があるかないかは分からない

ただの虚弱児だったかもしれない

 

忘れたはずのそんなことを思い出したのは

福島原発が爆発して放射性物質が飛び散ったからだ

小学生の女の子が二人小雨の中を傘を持っているのに

笑いながら濡れて帰るのを見たからだ

傘を差しなさいねと言うべきか迷っているうちに女の子たちは行ってしまった

 

迷ったのはなぜか

「どうして」と聞かれて「放射能が降ってくるから」と答えるとして

それは答えにならない

ふーんと女の子たちは通り過ぎるだろう

変なひとだと囁き交わすだろう

こんな日は雨に濡れるのは気持ちがいいのに変なひと・・・

 

理解できるまで言葉を尽くす忍耐も余裕もなく

強く問い返されれば自分の言葉が事実なのか流言なのか確信が持てなくなる

大人になった自分が今つくづく情けない

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2010年11月27日 (土)

忘れられない光景

少し前の晴れた日の夕方、西日を受けて輝いているような建物。

手前の交叉点で思わず見とれて立ち止まってしまいました。
(写真写りはよくありません)

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この時に抱えていた思いを、この先何十年たってもこの光景と共に鮮明に思い出すであろう、という予感がしました。
(要するに、この時は人生上のある分岐点だったのですよ。)

近頃、昔のことを色々と思い出すのですが(人生が終盤戦に入った証拠でもありますが)、その一つにン十年前の光景があります。

多分10歳前後でした。当時は見渡すかぎり田圃であった田舎で、週日は働きに出ていた両親は、専業農家から田圃を借りて仕事が休みの日をあてて自家用に米を作っていました。

稲刈りの風景です。まだ30代の父と母と兄と自分と弟と、黄金色の稲を刈り取り束にして木を組んだ台(稲架=はさ、でしたかしら)にかけて干し・・・

小春日和とでもいうべき、暖かい気持ちのよい日でした。稲の尖った葉先にちくちくされながら、ついうとうとしそうになっていました。東京オリンピックはまだ先のこと、多分まだ日本全体が戦後の貧しさを引きずっていた時代だったはずなのに、なんだかとても幸せでした。

とても幸せで、いつまでもこの日が続けばいい、と思いました。田圃の周囲は多分専業農家はとっくに刈り入れを済ませていたのか人影も無く、まるでこの世に自分達家族だけが存在しているような不思議な感じがしました。

世界中が消えてしまって、自分の家族がいつまでもこのままであればいい・・・

今思えば、このままであるということは、子どもは成長できないでずっと中途半端な子どもでいるということだし、両親はいつまでも子どもたちを育て続けなければならないし、つまり先の希望もない永遠の現状維持ということで、それはそれで困った事態なのですが、当時はどっぷり幸せでした。

そして、永遠にこの日を思い出し続ける予感がありました。

当時の両親の年齢を自分がはるかに超えた今、若い夫婦であった両親がいとおしく思えます。自分よりずっと若かった両親の思いはどんなであったろうか。二人とも既にこの世を去りました。今、また思います。

あの日は幸せだったな、と。

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2010年10月 6日 (水)

芋づる式に思い出す嫌なこと

ばあ様の一周忌を前に色々な夢を見ました。

たいてい目が覚めてしばらくすると忘れてしまうのですが、あの夜の夢はしばらく忘れませんでしょうな。

というのはですね、昔々ン十年前にある男と付き合いまして、その男は実家に来まして、あのこっ恥ずかしいセリフをばあ様とじい様の前で申したのです。

「娘さんを下さい」

当時は女性は20歳くらいで結婚して家庭にはいるのが「普通」でしたから、実家の親は喜びました。当事者のわたくしは、こんなもんかあ、と諦め半分でした。そもそも結婚するというのが、女にとって人生を捨てること、みたいな感覚しかもってなくて、しかも相手に惚れてるわけでもない・・・

で、その後ゴタゴタして「ええい、やめた!」と勝手に決めてしまって、親だけでなく相手の男にも泣かれたのでした。

その男が夢で主役級をつとめておりました。

夢でどうしたわけか、わたくしはその男と結婚しているのです。いるけど別れたくって仕方ない。離婚を迫っているのに、ばあ様とその男が異様に仲良しで、「何バカ言ってんのよ」と取り合ってくれない。くれないだけでなく、ばあ様とその男の二人で仲良く温泉に行くんだとぉ。

ふざけるなっ。

のあたりで目が覚めたはず。

好きになれなかったのは、あまりにも方向が違いすぎたからだと思います。先方は、素直で可愛らしい普通のお嫁さんが欲しくてわたくしがそうだと思ったようですが(見かけは清純そのものでした)、どっこい女の子の中味は砂糖菓子じゃありませんです。

カマトトこなしながらこの先の人生の収支計算もすれば妄想もする。

(収支計算は必ずしも経済的なものばかりではありません。人生のお楽しみも重要な計算要素です。つまり、こいつと結婚すれば金に縁はないだろうが面白おかしく暮らせるだろう・・・とか。)

で、その時思ったのは、こいつと結婚すれば金銭に不自由はしないだろうが決まりきった人生になるだろうな・・・

当時、新宿の紀伊國屋ホールに「薔薇の葬列」を見に行きました。わたくしが映画好きでした。ピーター16才、まごうかたなき美少年でした。わくわくどきどき、わあ、なんて素敵、と見とれておりましたのに、かの男、「くだらない、出よう」と申されました。

あ、あ、あ、あ・・・

このすれ違いはデカかったですねえ。先方は「いちご白書」に大感激してましたもんねえ。いえ、「いちご白書」が嫌いというわけではないですけど。

澁澤龍彦氏の本が大好きで買い込んでいましたら、「変な本は読むな」と言われましたっけ。

給料貰ったからとフランス料理を食べに行きました。わたくしは当時から食い物屋に連れて行かれて喜ぶ感覚はありません。そんな金使うなら、映画見に行った方がいい。20回は見られる、とかで。

当時のフランス料理店はプライドが高いというか、不慣れな客を露骨に田舎モノ扱いすることが多々ありました。入ったのもそんな店でした。コースメニュを選んで、ワインが来て、ボーイ(ギャルソンというべきか)が、グラスに注ぎます。男、飲みました。無反応。ボーイ、そのまんま・・・

小娘のわたくしが、かわりにうなづいて「これでOK」のサインを出しました。

男、テイスティングを知らなかったのです。バカにされまくったその夜のディナーは美味しかったかどうか覚えていません。ビフテキだった気がします。スズキのポアレとか食べたかった・・・

あるときは、別れ際に、「ナントカナントカ・・・お前一人の体じゃないから」と言われまして、目が点点点。この人、何言ってるんだろ、どの歌謡曲からそのフレーズを引っ張ってきたんだ・・・

「お前一人の体じゃない」そういわれて嬉しいもんなのでしょうか。わからん。

何かにつけて型どおりに行動する人でした。母の日だからとカーネーションを買ってきて差し出されましたが、(わたしゃあんたのお母さんじゃない)と喜ぶ気になれませんでした。

そうやって、そうやって、いかにすれ違っていたかを次々に思い出しますが(ネタはほかにもいっぱいある)、先方も、昔変な女に引っかかったと思い出しているかもしれません。

男、今頃はいいおとっつあんになっているでしょう。結婚して子供が3人、なとどいう話もどこからか聞きました。

ひと頃は思い出すたび、結構新鮮に腹が立ちましたが、ここまでくると青春バカ話の一篇にできるものですねえ。(といっても少々腹が立つ。)

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