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2011年4月26日 (火)

「天一坊」とはなんぞや 1

過日友人にお招き頂いて「新説・天一坊騒動」を観に行ってまいりました。評判の女形の早乙女太一さんの実物みたさでありまして演目は何でも良かったのですが、観終わって「天一坊とはなんぞや」といたく興味をそそられました。

「将軍吉宗公の落胤を騙り世を騒がした事件」とは知っておりますし、「昭和の天一坊」なる詐欺事件も耳にはしておりますが、実際どういう事件であったのか。

ネットで調べたら、なんともはっきりしない話ばかりでして、どうも公式文書さえきちんと残っていない事件だったようです。だからこそ、後世好き勝手に脚色可能なようで、いろいろな方がいろいろなことを書いています。その幾つかを読んでみました。

最初に読んだのが三田村鳶魚の「天一坊」でした。おかげで諸説の迷宮に入り込む前に心の準備が出来た気がします。

●『芝居の裏おもて』三田村鳶魚 鳶魚江戸文庫19 朝倉治彦編 中公文庫 1998年3月18日発行
(単行本は大正9年3月、玄文社より刊行。「天一坊」は「日本及日本人」大正4年7月1日号掲載)
(文庫本157頁に収録の)『天一坊』より引用

「 天一坊事件に関する、当時の文書も記録も伝わっていない。瀬名貞雄のような幕事に委しい人でさえ、かの申渡書のほかには、知らなかった。従って、臆説や脚色が極めて自由である。そうしたことになるのも、名君吉宗の素行を発端とする次第だから、他の犯罪のごとく、申渡書にさえ、科条を明記しなかった。誰も忌憚して、事件の顛末をいわないようにする。幕府では、名君の盛徳のために、本件を隠滅させるのにつとめたに相違ない。(以下引用略)」

 三田村鳶魚は、『夕日物語』(名古屋藩士高力種昌(こうりきたねまさ)の随筆)、『天一坊実記』(俗説)、『瀬田問答(らいでんもんどう)』、『古木集(こぼくしゅう)』、『醇堂漫抄(じゅんどうまんしょう)』、『楓林腐草(ふうりんふそう)』、『白竜子筆記(はくりゅうしひつき)』、『翁草』、『享保通鑑』、『耳嚢(みみぶくろ)』等を傍証に、天一坊事件はお粗末な姦計と結論づけている。

以下、三田村鳶魚『天一坊』説をお借りしてまとめたもの。

享保13年(1728年)夏に発覚し、翌14年(1729年)4月に関係者処刑で幕を閉じたこの事件、吉宗公が「覚えがある」と言ったために、もしやとの騒ぎになった背景には、「覿面な前例」が「徳川の宗家・分家に甚だ多い」からであった。「尾張の義直」などは本人が「一向覚えがない」と言っているのに近習が証人に立って庶子認知をさせてしまっている。

となれば、頭から天一坊を疑うわけにもいかず、伊奈半左衛門忠達(たださと)が慎重に取り調べを進めることになる。

処刑された享保14年、天一坊31歳。すると出生は元禄12年、当時吉宗公は鯖江の領主で16歳。天一坊の出生地とされる紀州で吉宗公が過したのは12歳まで。この段階で紀州落胤説が成り立たない。生母およしが江戸に出て来たときの落胤だとすると・・・

そこで紀州を詮索すると、およしもその子(落胤)も死亡しているのが知れた。およしの一家が死に絶えた後、証拠品の御短刀を手に入れた山伏が御落胤になりすまし・・・

三田村鳶魚はこうも書いている。

「さんざん騒がせて、財嚢の重さ次第で消える計画」であったのが「消え損じた幽霊だ」。「田舎芝居ならば、天下様の御落胤も、消えるのに便利が多い。天一坊が江戸近い品川で興行したから、引っ込み損じたのである。」

「お短刀一本で、藪から棒に御落胤が物になるわけはない。」「非公式にもせよ、幕閣の確認を求めてない以上は(中略)、世に出すことは思いも寄らぬ。庶子は実物でも、容易に確認されない。こうした運びを知らないのは百姓・町人で、大名の家でも、重役ならばきっと心得ている。それだから天一坊も幕府へ届け出て、自己の運命を決しようとはせずに、御目見金の方をしきりに稼いでいた。」

また諸説が天一坊に大岡越前守を組合わせていることについても「不出来な幽霊の処分」の項に、

「この不出来な幽霊は、南品川へ現れたのである。江戸の町奉行、裁判権は高輪限りとあれば、大岡越前守が出る場ではない。一件の申し渡しは、大目付鈴木飛騨守・御勘定奉行稲生下野守とによって済まされた。幕府では、大事件には五手掛りといって、寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・目付列席で裁判をする。天一坊事件は、尋常な法廷で宣告され、別に高等法院を開くこともなかった。畢竟、将軍の落胤だと触れ込んだのみで、更に見るべき規模もなく、関係も軽微なものであった証拠は、すなわち、五手掛りでなかったので知れる。天一坊事件の山は、将軍が覚えがあるといった、その当座にある。その後は、引っ込みの付かない幽霊、ざまは見られたものではないが、ただお覚えがあるというので、この不出来な幽霊事件を忌憚するの必要を生じ、事件全体を湮滅させようとしたから、多少深奥な意味もあるらしく、後世までも猜してやまぬのである。」

この『芝居の裏おもて』(三田村鳶魚)には「四谷怪談の虚実」だとか、面白い話がいっぱい載っています。

さて、各種「天一坊」です。

●『殺された天一坊』浜尾四郎 「昭和のエンタテインメント50篇上」文芸春秋編 文春文庫1989年6月10日
(追記:昭和4年改造10月号)

主人公は大岡越前守です。自分の裁きに自信を持つ名奉行のはずが、続けて誤審をして暗く沈みこみます。その一つは「子供を争って二人の母が手を引っ張りあい、泣き声に思わず手を離した方が本当の母親である。」というよく知られた話。

負けた女が後日身を投げます。懐の遺書には慄然とさせる文言がありました。「『私は騙りではない、真実の母だ。騙りと云われたのは奉行様なのだ。』と申しておきたいのでございます。」

奉行は『首尾よく勝った者に其の子を渡す』と言い、その言葉を信じた母親が痛みに耐えかねてなく子を、手を離せば未来永劫失われると必死に引っ張った。なのに奉行は自分で命じた言葉が一人の母親にどれだけの決心をさせたかご承知がない・・・と。

が、陰気に沈み込んでいた奉行が急に再び明るく輝きだす。その理由とは。奉行は「力」というものを知ったからだと。罪人かどうかはどうでもよいこと、奉行が負かしたからこそ悪人であり罪人であると、多くの人々は考え「信仰」すると気づいたからだと。

そして天一坊の裁きの段では、本物と知れたが「天下の御為」偽者として処罰せざるを得なかったと。氏より育ち、流れ野に伏し山に育ってきた人間を力のある位置におくことは天下に災いを生む事になると。

ここでは天一坊は、ただただ親に会いたいと願うだけの愚かにして真直な、美しい僧形の若人として描かれています。

4/27追記:非常に怖い内容がさらりと書かれたこの作品が「改造」に掲載されたのは昭和4年(1929年)、昭和2年に始まった金融恐慌がまだ尾を引いています。また大正14年(1925年)に制定された治安維持法は、昭和2年に改定され最高刑が死刑となりました。そんな時代背景を頭に入れて読むと、ただの時代小説ではないものがみえてきます。

●『大岡越前の独立 大岡忠相・天一坊』直木三十五 時代小説大全集4 人物日本史 江戸 新潮社版 新潮文庫 平成2年9月25日発行
 (内容紹介は別の日に)

●『天一坊』下母澤寛 時代小説の楽しみ六 大江戸指名手配 新潮社 1990年8月1日
 (内容紹介は別の日に)

他に、『徳川太平記』(柴田錬三郎)が、天一坊事件を伝奇的に扱った秀作として名高いようです。

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